1999年夏、広州の花園酒店から、天河駅前の中天広場マンションに引っ越した。香港熊谷組の新築マンションだ。会社が購入した部屋で、オフィスも同じビルに移転した。エレベーターで降りれば会社、上がれば自宅。徒歩0分通勤は楽だった。
夏休み、日本人家族が帰国で街を離れた頃、事件は起きた。
8月の広州、蒸し風呂のような暑さ。夕方、ゴミ出しで廊下に出た。ドアに戻ると、ポケットに入れたはずの鍵がない。
サンダル、短パン、半袖。ポケットを探すまでもない。ポケット自体が、無いのだ。
オートロックのドアは、体当たりしたくらいでは、ピクリとも動かない。28階の廊下で、半裸に近い日本人のおじさんがドアをガチャガチャやっている。試しに本気で体当たりしたところを、運悪く同じフロアの日本人に見られてしまった。完全に不審人物だ。通報される。
慌てて地下室の管理人室へ降りた。「すみません、鍵を忘れました。マスターキーを貸してください」
管理人は冷たく言った。「マスターキーはセキュリティ上、ありません」
香港のデベロッパーが作った高級マンション、セキュリティは完璧なのが裏目に出た。自分の部屋に、鍵がなければ自分も絶対入れない。完璧すぎる。
28階の自宅の中には、財布も、パスポートも、スーツも、靴も、すべてがある。最悪、家族が日本から帰国するまで2、3週間、ホテル住まいか…いや、28階の窓から、ベランダ経由隣の部屋伝いに侵入できないか…と想像して、足がすくみ、ぞっとした。
28階の廊下で呆然と立ち尽くしていた時、ふと、同じマンションの先輩家族のことを思い出した。上の階の確か同じ部屋番号…
夕食時、突然の訪問だ。チャイムを鳴らす。奥様がエプロン姿で出てきた。キッチンからは良い匂いがする。ちょうど食事の準備中だ。
サンダル、短パン、半袖の私が立っている。事情を話すと、ご主人が「おお、加藤くん、いい所に来た、ビールでも飲もう」と笑って招き入れてくれた。
日本人学校に通うお子さん二人、リビングで宿題をしていたのだろう。「なんだこのオヤジ、あんな格好で夕飯時に突然」と思ったに違いない。申し訳なくて、顔から火が出る思いだった。それでも、奥様が取り分けてくれたおかずまで、子供の分を横取りしてしまったようだ。本当に申し訳なかった。
ビールを飲みながらも、気が気でない。28階の自宅の鍵はどうなる。財布も無い。いくら図々しい私でも喉を通らない。
すると奥様が、ポンと手を叩いた。「加藤さんのあいさんは部屋の鍵持ってるんじゃないですか?」
あいさんとは、通いのお手伝いのおばさんだ。合鍵を預けているに違いない。だが、連絡先が分からない。
そこからが早かった。奥様が、駐在員奥様ネットワークを駆使してくれた。あの奥様に聞いて、この奥様に電話して…広州の日本人コミュニティの結束力だ。数分で、あいさんの電話番号を探し出してくれた。
恐る恐る電話すると、あいさんは「今から行きます」と、快く応じてくれた。タクシーに乗ってわざわざ鍵を持ってきてくれた。
カチャリ、と28階のドアが開いた時の安堵感。命拾いした後の中国ビールを、先輩宅に戻って改めてご馳走になった。そのビールが、広州で飲んだ中で、今までで最高に美味かった。
教訓:オートロックの鍵は首からチェーンでぶら下げろ。短パン・サンダルでゴミ出しするな。



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