自転車で頤和園まで行けるのが、北大生の特権だった。5月の昆明湖で見た謎の生物、夜の学生寮で見た8人部屋の現実、そして夜10時の図書館で見た満席の光。1987年の北京大学で、私が目撃した日中の学生の決定的な差。
頤和園でカバを見た
北京市内でも指折りの観光名所、頤和園。日本の教科書にも載る歴史の舞台だ。北京大学から北西へ、自転車で近いので何度も行った。
5月、まだ肌寒い季節のこと。園内の人工湖・昆明湖で、バフッバフッと水しぶきを上げる生き物が見えた。まさかこの季節、この観光地の真ん中で人が泳いでいるのか?目を疑った。
蓮池のような泥の中で泳ぐ姿は、カバ以外の何ものでもなかった。正体不明の謎の生物。後に聞くと、冬でも泳ぐ北京の冬泳愛好家だったのかもしれない。頤和園での仰天光景だった。
学生の勤勉さ – 日中の驚くべき差
夜、一般の中国人学生のたまり場に遊びに行ったことがある。男子学生に留学生だと告げると、自分らの寮に案内してくれた。
男子寮は汚いという固定観念があった。だが裏切られた。8人部屋に2段ベッドと小さな机のみ。各自の荷物は最小限。それでも8人で共同生活は息苦しいと感じた。
夜9時、10時を回っても部屋に2、3人しかいない。「みんなは?」と聞くと「図書館で勉強」と。帰りに図書館を覗いて仰天した。席は満席、煌々と明かりがつき、一心不乱に勉強する学生の後ろ姿。背筋がぞっとした。本来あるべき学生の姿がそこにあった。
バスでの日常的な風景
北京生活での日常的な足は自転車とバスでした。当時バスは庶民の足で北京に地下鉄はほとんど走っていなかった(ほんの短い区間のみ操業開始されていました。しかも核シェルターとしての使い道もあったとか…)よって、何時乗っても常にぎゅうぎゅう詰めの超満員で運行されていました。二両連結のパンタグラフのアンテナを立てたトロリーバスが主流。しかも良く電線からアンテナが外れて、車両の天井に上って竹の棒で繋ぐという原始的な手作業が街のあちこちで見られました。
バスの中には、切符切りの所掌が中間と最後部に2名乗っていますが、乗客はチケットを買うには人が多過ぎて移動出来ない。(下車時に抜き打ち検査があり、チケットを提示しないと無賃乗車とみなされ、正規運賃の2,3倍の料金を支払わされる羽目になります)多くの乗客は日本同様定期券(月票)を手元に乗りますが、中にはチケットを購入しなければならない人も乗車します。何が起こるか?満員のバスの中で、小銭5銭か1元の小銭を隣の乗客に、行き先を言い、料金が手渡され、順繰りに隣の人へ伝言(行き先)と料金の手渡しが続き、最後に車掌はお金を受け取り、チケットを返すとという、なんともたまげたバケツリレーならぬ、お金とチケットリレーが行われます。ある日、聴いたこともない長ったらしい停留所名が告げられ、しかも強烈な北京訛りで、聞き耳を120%立て神妙に聞きましたが、まったくわからず、こっちに金が回ってくるなという儚い願い空しく、ついにお金を手渡されてしまいました。仕方なく朧げに聞き取った停留所名をエイヤーと発音して隣の人に伝言して金を突き出しました。「ほにゃらら駅!」金を渡すと隣人は一瞬怪訝そうな顔をしたものの、私に敢えて聞き返すこともなく、理解したのかしないのか判明しないまま、隣の乗客に”無事”伝言してくれました。この時は、ほっとしましたが、後のビジネス上の通訳業務より緊張し冷や汗ものでした。
大連のバス停での見たこと
当時の大連は旧日本時代の歴史ある建築物も多く残る港町でした。黄海に面する老虎灘(現在は高級リゾートに化けている)の海岸を見て歩き、大連駅に帰る為、バス停でバスを待っていると、猛スピードでバス停に入線してきたバスは所定の停車位置を6,7mオーバーした瞬間、想像を絶する光景に目を疑いました。最前列に並んでいた若者が、バスのドアに飛びつきスパイダーマンの様に張りつきました。先頭に並んだ権利は誰にも渡さないぞという凄まじい執着力に関心するとともに、吸盤の様に張りつく手足ハリウッド映画顔負けでした。「整列乗車」も「年功序列」も、当時の中国にはこの単語は存在しませんでした。早い者勝ちです。老若男女入り乱れての入り口への猛ダッシュは日常茶飯事で私も随分鍛えられました。それでもドアに張り付く勇気も超人的な能力もありませんでしたが…ところが、この入り口の押し合いへし合いの大混乱を通り過ぎれば、中は空席だらけで拍子抜け、殺気だった先ほどの騒動は何だったのか訳が分かりません。



コメント