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腐った男たちと、キャシーの体当たり ─ Netflix版『エデンの東』を見終えて

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TVドラマシリーズ
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Netflix版『エデンの東』全7話、7時間を費やして見終えた。見終えた直後に残ったのは感動ではなく、重い倦怠感と、そして「もうこの手の話はたくさんだ」という正直なうんざりだった。世の中によくある、苦難を乗り越えて最後に一条の光が差し込むような物語を期待して見ると、完全に裏切られる。光は差さない。残るのは人間の腐臭だけだ。そういう意味で、この作品は強烈だった。

まず、世の中にはどうしようもない男が確かに存在するのだと、このドラマはこれでもかと見せつけてくる。アダム・トラスクはその代表だ。理想主義という名の現実逃避。自分は善良で正しいと信じ込み、妻の異変にも、子供たちの叫びにも向き合わない。その善良さが、結果的に誰よりも残酷に作用する。弟のチャールズは対極のようでいて同類だ。愛されないという劣等感を暴力でしか処理できず、嫉妬と憎悪に飲み込まれる。息子たちであるキャルとアロンもまた、父の愛というたった一つの承認を求めて醜くもがく。アロンは純粋さという名の傲慢で、キャルは不器用さという名の狡猾さで、互いを傷つけ合う。彼らは皆、似ている。自分の中の欠落から目を逸らし、その責任を他人に押し付けて生きている。その姿は目を覆いたくなるほど見苦しく、同情の余地すらない。

そして、どうしようもない女もまた存在する。フローレンス・ピュー演じるキャシー・エイムズだ。彼女は設定上、世のありとあらゆる男を表面的に一目で虜にする女だ。その点で言えば、ピューは適役だったと思う。顔立ちは可愛らしく華があり、カメラが捉えるたびに目を奪う。だからアダムが、チャールズが、なぜあれほど簡単に狂わされるのかが理解できる。

そしてこのシリーズの最大の目玉は、何と言ってもピューの体当たり演技に尽きる。娼婦として生きることを選んだ後のキャシーの描写は、目を背けたくなるほど強烈だ。一度ならず二度三度と繰り返される、あの驚きのシーン。彼女はスタントや吹き替えに頼ることなく、自らの身体を使ってキャシーの支配と被支配の狂気を演じ切る。美しい顔とは裏腹に、暴力と欲望が渦巻く部屋で見せる無表情なまでの冷たさ、そして時折見せる獣のような執念。あのシーンがあるからこそ、キャシーが単なる小悪魔ではなく、生きるために自らを商品化し、男たちを食い物にするしかなかったという業の深さが伝わってくる。可愛らしい顔で悪女を演じることへの違和感は確かにあるが、あの体当たりの連続を見せられれば、女優としての気合と覚悟に脱帽するしかない。これこそが現代版『エデンの東』が仕掛けた最大の驚きだった。

不思議なのは、似たもの同士が惹かれ合うという法則だ。どうしようもない男たちは、どうしようもない女に吸い寄せられる。欠陥を抱えた者同士が出会えば癒し合うかと思いきや、この物語では逆だ。互いの欠陥をさらに深く抉り、共に沈んでいく。愛情と呼べるものがあるとすれば、それは愛ではない。欠落の共犯関係だ。

この物語は、だから救われない。最終話に提示される「Timshel」という言葉。人間には善を選ぶ自由がある、という聖書の言葉だ。一見、一条の光に見える。しかしそれはむしろ、「選べたはずなのに、お前は選ばなかった」という重い宣告だ。可能性があったという事実が、彼らの腐敗をより際立たせる。

こんな世の中に、生きる価値はあるのか。7時間かけて突きつけられた問いは、それだった。

そんな腐臭に満ちた世界で、唯一息ができたのがリーという存在だった。トラスク家に仕える中国系の使用人でありながら、誰よりも一家の大黒柱として振る舞う男。畑仕事も、家計も、子供たちの教育も、彼は黙々と支える。そして誰よりも公平で、誰よりも正義感に溢れている。彼だけが人を断罪せず、それでも何が正しいかを語ることができる。リーの存在がなければ、私はこの物語を最後まで見ることはできなかっただろう。

二度と見たくない。だが、しばらく忘れることもできないだろう。7時間かけた価値はあったかと聞かれたら、リーに出会えたから、そしてピューの凄まじい体当たり演技を目撃できたから、あったと答える。

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