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中国長距離列車 (トルファン→北京 3000㌔)旅の思い出

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旅の随筆
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硬座(2等)/無席で3000㌔の行程に乗り込んだものの、いつの間にか中国人客と和気あいあい
バイタリティー溢れる同席者

1988年春新疆ウイグル自治区訪問の帰りに、トルファンから北京への帰路3,000㌔の移動の為、2泊3日の超長距離列車に乗ったことがあります。当時、中国の鉄道に乗った経験のある人も少なからずいると思いますが、中国国内の大抵の駅の状況はほとんど同じだったと思います。待合室も構内も車輛内も大変多くの乗客で常に大混乱でごった返していました。

当時列車で移動する乗客の荷物は寝具一式(ふとん、枕)ばかりか、家財道具、大量の食料(果物・ニンニク)などを持ち込み、まるでどの車輛内も民族大移動を想わせる壮絶な雰囲気が漂っていました。

指定席番号の無い「無席」という切符が売り出されていました。「無席」だと映画館の「立見」席と同じです。日本の感覚では席が無いように誤解しますが、座る座席は売り切ってしまったので、「無席」は座る座席の無い乗車券という意味です。

「無席」で乗車してしまうとかなり悲惨な事になります。本当に席がありません。3,000㌔の行程を全て立ちっ放しです。通路は頻繁にトイレに行く人が往来するし、食品飲料販売の台車も頻繁に通ります、掃除をする車掌もモップを持って何度も掃除にやって来ます。車掌は熱湯入りの大きな薬缶をぶら下げて何度も往来するので、立っている客は大変邪魔者扱いをされます。これにはかなりつらい思いをさせられます。

当時、わたしは出発以前から大変苦労する列車の旅になることはある程度覚悟できていました。それでも心のどこかで、予期せぬ僥倖に遇って、何とかなるだろうと高をくくっていました。 結果としては、文字通り、どうにもならない地獄の苦しみが待ち受けていました。

まず、乗った車輛が超満員、立錐の余地もありませんでした。これから先3,000㌔も走るのに席が確保出来ず、立ちっ放しかと思うと本当に絶望のどん底に落とされました。車掌を掴まえパスポートを振りかざして「北京まで帰るが、いくらでもお金は払うので席を確保して欲しい」と懇請しましたが、「河南省鄭州までは空席は出ない」との一言だけでした。

その当時はトルファンから河南省鄭州までは相当遠いとは想像できていましたが、まさか実際の距離が2,000㌔超も有る事を知らなかったのは不幸中の幸いです。もし、あの時正確な距離(2,000㌔)と知っていれば、絶望のどん底の闇の深さは計り知れません。

他方、乗車時に席取りゲームに負けて、あぶれて立っていた多くの中国人乗客が他にもたくさんいたはずでしたが、1人座り、2人座りして、時が経過するに従い、立っている人数が徐々に減っていき、ふと気が付くと、車輛内に立っている乗客はわたし一人だけになっていました。

途中駅に停車したわけでもなく、他車輛に移るなり、空いている席を見つけるなりした様です。中国人のこのような「要領の良さ」には本当に舌を巻きます。

一方、全く要領の悪い自分に呆れるしかありません。しかしながら、そんな状況の中にも親切な人はいるものです。3人掛け椅子に腰かけていた中国人家族が、わたしが長時間立ちっぱなしであることに見るに見かねて、僅かお尻半分程のスペースを譲ってくれました。僅か10㌢の狭いスペースでしたが、この優しい気持ちは忘れられません。

その晩になると3人掛けの椅子の下に新聞紙を敷いて潜り込み寝る場所の確保を始める人、それぞれの乗客は信じられない窮屈なスペースに自分の「寝床」を確保し、寝る態勢にはいっていきました。わたしは尻半分のスペースの上でとうとう一晩明かしました。

夜が明けると、中国人は各自持ち込んでいたインスタントラーメンを出して朝食の準備に取り掛かっています。その家族は朝飯の準備に取り掛かるではありませんか。わたしはラーメンなど持ち込んでいる筈も無く、その家族は自分達の分から、 何とわたしの分のラーメンにもお湯を注いでくれていました。おすそ分けを頂き、またもや一生忘れられない恩を受けてしまいました。これほど有り難い一杯のカップラーメンに人情の温かみを感じたのは初めてでした。

わたしは車掌に鄭州まで尻半分しか座れない椅子に座わり続けるはもう我慢できないので、鄭州まで待つことなく、寝台車を早目に確保して欲しい、一つくらいは空きが出るだろうと車掌に何度も交渉しましたが、全く埒が空きません。

この間、とにかく座り心地は非常に悪いですが、中国人家族に囲まれ、和気藹々と過ごしていいたのですから驚きです。どのような会話が交わされていたか今ではほとんど忘れましたが、一言だけ「日本は遠い様だが、列車で何時間位かかるのか?」という質問を受けたので、「とても遠いので、今回は飛行機に乗って来た」と答え納得して貰いました。また、この家族と一緒の写真も撮ってわたしのアルバムに今でも記念として大事に貼ってあります。

今思い返すと、行きは飛行機に乗って行き、帰途の新疆地区-北京間を何故飛行機に乗らなかったのか理由が良く判りません。トルファンからウルムチ(北京便の飛行機あり)に戻るのが面倒臭かったのかも知れせん。それとも、3,000㌔超の距離を陸路鉄道で移動する事に一種の淡い「ロマン」を感じていたのかもしれません。

硬座(二等ハードシート)の「無席」は避け、せめて軟臥(一等寝台)か、硬臥(二等寝台)にすべきだったと反省しています。最も現在では高速鉄道(新幹線)が陝西省西安まで開通しているので、3,000 ㌔のかなりの部分は新幹線利用が可能となっています。

途中駅で寝台車両に何とか移る事が出来たのですが、「硬座」で相席だった中国人も何度か寝台車の方に遊びに来てくれました。その時は自分だけ寝台車に移ってしまい申し訳ない様な気分になりました。

漸く北京に辿り着き、北京大学の学生寮に戻り早速シャワーで身体を洗うと頭と全身を洗った石鹸の泡がまっ黒くなって流れました。当時、蒸気機関車が二両連結で3,000㌔豪快に走り抜いていたので、全身石炭の煤まみれになっていたのでしょう。

若い時の苦労は買ってでもしろと良く言われましたが、是ほど辛い長距離列車の旅だけはもう二度と御免だと思います。それでも列車内での、くったくの無い逞しい笑顔の乗客たちとの心温まる”交流”経験は一生思い出に残る貴重なものとなりました。

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