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90年代 懐かしいときめきの「香港」の思い出

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旅の随筆
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唯一民主化保護を鮮明にする香港紙「アップルデイリー」が発行停止というニュースも伝わって来ている「香港」ですが、90年代、中国に住んでいた日本人駐在員やその家族に取って香港は憧れの地、心のオアシスでした。

当時香港の地下鉄のシートはステンレスの一枚板が張られているもので、大変滑り易く急停車する度に足で突っ張って自分の体重を支えないと、身体(お尻)が左右に30㌢も横滑りしてしまう代物でした。慣れた香港人は足の力の入れ加減がとても上手で、どっしりと構えていますが、慣れていない我々は、地下鉄が出発・停車する度に隣の客に思いっきり肩を押し付けていた覚えがあります。

広州に家族帯同で駐在していたわたしは、ほぼ、毎月家族を引き連れ、香港に生活必需品、特に食料の買い出しに出掛けていました。広州市内では購入することが出来ない新鮮な精肉(牛豚肉は広州の市場でも新鮮な肉を購入可能できましたが、日本人好みの牛肉はありませんでした)その他日本製食品を買い込み、スーツケース2つに目一杯に詰め込み、持ち帰えることが駐在員の重要な“仕事”の一部でした。

当時、広州市内には、ジャスコなどの大手日系スーパーもちらほら進出し始めていました。しかし、これらの店は日本人駐在員・家族向けというより、地元の中国人ユーザ―向けの食材を中心に販売されていました。やはり、日本人も多く住み、日本人向けの品揃えが圧倒的に充実している香港の大丸などの食料品売り場の充実した百貨店への買い出しは欠かす事の出来ないものでした。

広州に赴任前には北京にも単身で1年程住んでいました。北京から香港行きに利用したキャセイ・パシフィック航空の飛行機に乗り込むと感じられる機内の開放感は他の中国国内の飛行機で感じるものとは完全に別世界でした。また、香港のホテルは、バスルームの柔らかいシャワーの水圧にすら、中国大陸と異なる、得も知れに幸福感を感じることが出来ました。

それほど、香港から受けるイメージは、中国大陸のものと、現在では想像もできない程大きな隔たりがありました。

広州から香港にバスや列車で行く場合は深圳で国境を越える必要がありました。先輩駐在員の話ですが、国境の通関検査も無事に終わり、最後に深圳と香港の国境の間の小さな川の橋を歩いていて渡り終えた瞬間、あまりの嬉しさに小躍りしながら、ついつい走り出してしまったそうです。

すると、中国の公安職員に警笛で呼び止められ、公安が言うには「走らないでください。転んで怪我をしますよ」と優しく注意を受けたそうです。その時、本人は走ったが為に、出国を拒否されるのではないかと一瞬本気で思ったと言われていました。この、小躍りして、香港の国境に向かって、思わず走り出したくなってしまう心情をわたしは十分理解出来ました

また、ある先輩は、香港で牛肉を大量に購入し、広州に持ち込もうとして(実際、肉の運び込みは検閲でスーツケースを開けられ、見つかると没収のリスクがありました)無事通関を通った直後、喜びの余り思わず家族全員で両手を上げて“万歳”と叫んでしまったそうです。すると係員にこの様子を見咎められて、「怪しい」と思われた荷物を再度開けさせられたそうです。中の持ち込んだ牛肉を発見され、全部没収されてしまったと、涙を流し語ってくれました。

その後も、香港出張の度に、時間に余裕さえあれば喧噪渦巻く街中に繰り出し、店のウインドー(本物の有名ブランド時計、ゴルフクラブ、オーダーワイシャツ)が日本の半額程度で買えました!?)や屋台をのぞき込みながらひたすら歩くことが楽しく、時間が過ぎるのを忘れてしまいました。たぶん、現在もそうだと思いますが、クリスマスシーズン後の『バーゲンセール』の時期は狙い目でした。日本では絶対値下げしない有名ブランド品も驚くほど値引きして売り切ってしまいます。また、店員にある程度の交渉幅の権限を持たせている様で、交渉次第で割引の値札より更に値引きしてくれる恩典がありました。

日本の街には無い凄まじい喧噪と熱気、欧米人、東南アジア・インド人などの異人種、物珍しさに満ち溢れていて、好奇心を物凄く刺激されました。さらに、麺・お粥・おやつ類の美味しい小吃店は至る所にあり、歩き疲れれば、冷房の効いた(効き過ぎた!!)飲料店、甘味処、果物屋台で寛ぎ、更に、また歩くという時間を過ごしていました。

香港では東南アジアのリゾート地を初め全世界への航空券・ツアー料金が非常に安く、多くの駐在員も香港出発のツアーを利用していました。わたし達家族が出掛けたバリ、プーケット、セブのツアーも他の駐在員と同じく、香港の旅行会社経由申し込みをしました。

また、ある日、香港事務所の親しい現地ローカルスタッフ(香港人)の家庭に招待され、夕食をその家族と共にする機会がありました。彼の家は驚くべき事に「女人街」という、ちょっと怪しい通りの名前ですが、主に女性ファッション衣料、化粧品・雑貨の小さな店舗が、所狭しと軒を連ねている、香港一賑やかな夜市(ナイトマーケット)の通り面したアパートの一室でした。

部屋に通されると、外界の喧噪はまったく気にならなくなりました。彼の家族や親せきの方々にも大勢集まって頂き、父親や叔父さんの自慢の手料理による嬉しい大歓待を受けました。

彼らは元々中国国内の湖北省出身と聞いていたので、北京語が話せたので会話は成り立ちました。当時、香港では北京語は余り普及しておらず、理解出来ない人の方が多かったと思います。

本来の一国二制度の期限は香港の中国返還後50年と約束されていたので、2047年という事でした。最近の状勢ではこれを待たず、中国に呑み込まれてしまいそうな雰囲気を感じてしまい、香港らしさが消えてなくなるとても寂しい気がします。

しかしながら、いつも思い出す、広東でよく耳にする言葉に「上に政策あれば、下に対策あり」というものがあります。今後も力強い香港の発展を見守っていきたいと思います。

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