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台湾・広州のゴルフの思い出 

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旅の随筆
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わたしは1980年代、30才で台湾でゴルフを始めました。台北付近には旧淡水、新淡水、林口、長庚、北投国華など有名なゴルフ場がたくさんあり、台北市での語学研修の1年間という限られた時間でしたが、研修生仲間と月一程度ですが、愉しくゴルフをしていました。

 

また、暇な時間を見つけて(毎日授業は午後3時で終わる為、それ以降は基本的に自由行動時間でした)、家の近くにある市内「青年公園」のゴルフ練習場に通い、台湾人コーチにゴルフの手ほどきを受けました。

 

しかし、練習の甲斐も無く余り上達しませんでした。もう少し教え上手なコーチに出会っていたら、ゴルフももっと上手くなって、違ったゴルフ人生を歩んでいたかもしれないと思う事も時々あります。

コーチの指導のポイントはいつも「軽軽打就好。(力を抜け、軽く打て)」ばかりでした。それとダウンスイングでは右肘を体側に付けろとしか言われたい覚えがありません。(ジェスチャーでやってくれた)どのような指導を受けたか細かいところまで覚えていませんが、それでもまだ若かったので力任せに振れば結構距離が出ていた様な気がします。

なお、当時はまだ中国語も良く分からなかったので、今思い返すと、微妙なニュアンスのレッスンを受けてもちんぷんかんぷんだったのかもしれません。

 

青年公園練習場という狭い世界の中では、まあまあ徐々に上手く打てる様になったので、他の台湾人の客が良くわたしの打席の後ろに集まって来て、わたしのスイングを見ていました。『好球(いい球だね!)』『打的漂亮(きれいに打つね!)』とか応援してくれるのです。今の、他人の事には、まったく無関心な日本のゴルフ練習場の雰囲気とはかなり違いました。

 

その後も練習場ですれ違うと何人かの客とは直ぐに挨拶を交わす仲になりました。この辺の感覚は日本人と異なり、かなりウェットだなぁと感心しました。ある台湾人は、街中でもわたしが歩道を歩いていると、運転する車をわざわざ止めて、窓を開け、「加藤さ〜ん」と呼び掛けて来ました。初めは耳と目を疑いましたが、練習場で面識があり、見覚えのある顔が車の窓を開けて、大きく笑って手を振っていました。この人懐こさには本当に感激しました。

 

ゴルフコースでのラウンドも楽しいのですが、わたしはゴルフ場の景観にぞっこん惚れ込んでおり、当時はプレイをしなくとも暇な時間があれば、信じられないことですが、旧淡水ゴルフ場に行って塀の外からコースの景観を眺めて楽しんでいました。(他人のプレイを覗いているわけではなく単純にゴルフ場を眺めていました)これは、中学校の林間学校で蓼科高原に行った時も、キャンプ場に隣接するゴルフ場に夕暮れ間近に忍び込み、誰もいなくなった薄暮のフェアウェイ内を走り回ったのを覚えていますが、あの時以来フェアウェイの景観に魅了されてしまい、ゴルフ場は憧憬の場所となっていました。

 

この「グリーン好き」は会社に入社後、登山クラブに参加し週末は毎週登山に明け暮れる生活を数年間続けていた様にアウトドアスポーツに目覚めた事にも共通したものがあると思います。中学以来10年間剣道という室内競技に明け暮れていた反動もあるかもしれません。

 

しかしながら、実際コースに出ると白球の行先を追うのが忙しく、コースの景観を楽しむ余裕など全くなくなってしまうのが現実でした。

 

約30年前ゴルフを始めた頃は、ドライバーは「パーシモン」で造られていたせいか、道具による腕の修正(誤魔化し)が効かず、スイングが悪いとティーショットはいつも、ものの見事な大スライスばかりでした。

 

その結果、わたしの第二打はほとんどが林の中、ラフから脱出のみ、或いは隣ホールのフェアウェイからグリーンを狙うショットばかりでした。これではスコアがまとまる筈がありません。

 

ある日、台湾の名門旧淡水(台湾ゴルフクラブ)でプレイが出来るというので行きました。そこのキャディーさんはすべてプロ崩れの男性キャディーでした。わたしに付いたキャディーは凄い熱心で、わたしが初心者だと分かると、ここではこの番手でどっちの方向に打てとか、番手を上げて低いボールのパンチショットで木の枝の下を抜けろ等々、細かく手取り足取り教えてくれるので、スコアも大分よかった様な気がします。その頃は「コースマネージメント」という言葉など知りませんでしたが、自分の実力でも頭さえ使えば、良いスコアで回る事も出来るということを教えてもらいました。

 

90年代になり、広州駐在時代は平社員でも会社からゴルフ場会員権を受けるという有り難い福利厚生がありました。広州から近い佛山に会社が無記名会員権も保有していた為、4名までなら、いつでもだれでも、会社名をいうと利用出来たので良く利用させてもらいました。

 

あの頃はまだ広東省のゴルフ場は、プレイする中国人の人は少なかったので、我々日本人は何時でも予約無しでプレイ出来ました。

ゴルフ場ではコースも食堂もロッカー室もゴルファーの姿をほとんど見掛ける事はありません。ラウンド中も前の組、後の組の姿を見たことがほとんどなく、自分たちでコースを「貸切り」でラウンドしているような夢のゴルフ環境でした。

 

しかもプレイ代金はメンバー料金だった事もあり、1ラウンドキャディ付きでなんとHKD100(当時のレートで約1,500円)と信じられない低価格でした。オリンピックをやって大抵は買っていたので、ほとんどプレイ代は自分で支払わないことが多かった様な気がします。

 

また、広州市内からコースは近いので夜明けから打ち始めれば9ホールをホウルアウトしてからでも、会社の就業時間にぎりぎり間に合いました。ゴルフ好きの先輩を誘って1,2回2人で内緒で9ホール回ってから出社した事があります。

 

更に、広州では昼間の猛烈な暑さを避け、ナイタープレイ設備を設営しているゴルフ場もありました。仕事帰りに9ホール回って帰るということも有りました。各ホールにナイター照明があり、フェアウェイは煌々と明るく昼間と何ら変わりありません。深いラフに入るとボールは見つけにくい事とラフから蛇が出てくる可能性がある為、ラフに入ったボールはロストを宣言して、プレイを継続しました。お蔭でスコアは全くまとまりません。

 

広州に進出している日系カーメーカーの月例会に良く参加していました。スコアを崩し、入賞を逃した後は、表彰式・会食後、成績が不本意だった者同士が何人か居残り、もう一ラウンドを廻って、帰った事も何度かありました。まだ若く、一日に2ラウンド回るのは体力的に全く問題がなかったのかも知れません。現在考えてみると、日本では考えられないゴルフ環境だったと思います。

 

広州駐在は初めの1年は家族も帯同していたので、土日は家族サービスの為ゴルフは封印せざるを得ませんでした。後半の2年は教育の関係で家族も先に帰国し、単身赴任になったので、毎週土日を殆んどゴルフに費やし、年間100ラウンド近くプレイしましたが、結局余りゴルフの腕前は上達しませんでした。日本に帰国した時のハンディが20でそのまま現在も全く進歩していません。なんとか19、 18にならないか今必死にコースでラウンドしています。

 

2015年、湖南省長沙に駐在した時の長沙のゴルフ場の数はまだ広州程多くない上に、中国人ゴルファー人口が激増した為、プレイ料金は1ラウンド900元、キャディフィー200元とその他交通費・食事代で約1,500元も掛かっていました。今では日本でプレイした方がはるかに安いのではないかと思います。それに予め予約をしないとプレイ出来ない事になっていました。当たり前といえば当たり前ですが、ぶらりと行けば何時でも出来た時代が本当に懐かしい。

 

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