
1986年6月私は台湾のゴルフコース筆おろし
わたしは1987年、30才で台湾でゴルフを始めました。台北付近には旧淡水、新淡水、林口、長庚、北投国華など有名な名門ゴルフ場がたくさんあり、台北市での語学研修の1年間という限られた時間でしたが、研修生仲間と月一程度ですが、愉しくゴルフをしていました。
また、暇な時間を見つけて(毎日授業は午後3時で終わる為、それ以降は基本的に自由行動時間でした)、家の近くにある市内「青年公園」のゴルフ練習場に通い、台湾人コーチにゴルフの手ほどきを受けました。
しかし、時間はたっぷりありほぼ毎日練習場に通っていましたが、その甲斐も無く余り上達しませんでした。この時期もう少し教え上手なコーチに出会い集中的に練習していたら、ゴルフももっと上手くなって、違ったゴルフ人生を歩んでいたかもしれないと勝手な妄想をしています。
コーチの指導のポイントはいつも「軽軽打就好。(力を抜け、軽く打て)」ばかりでした。それとダウンスイングでは右肘を体側に付けろとしか言われなかったと覚えしかありません。(ジェスチャーでやってくれた)どのような指導を受けたか細かいところまで覚えていませんが、それでもまだ若かったので力任せに振れば結構距離が出ていました。今から思うと腰の回転はあまり気にせず、腕力任せでした。
なお、当時はまだ中国語も良く分からなかったので、今思い返すと、微妙なニュアンスのレッスンを受けても、ほとんどちんぷんかんぷんだったのです。
台北市内の青年公園練習場という狭い世界の中では、まあまあ徐々に上手く打てる様になっていたので、他の台湾人の練習客が良くわたしの打席の後ろに集まって来て、わたしのスイングを見ていました。『好球(いい球だね!)』『打的漂亮(きれいに打つね!)』とか応援してくれるのです。それなりに気分の良い練習が楽しめました。今の、他人の事には、まったく無関心な日本のゴルフ練習場の雰囲気とは180度違いました。
その後も練習場に行く度、すれ違うと何人かの客とは挨拶を交わす仲になりました。この辺の感覚は日本人と異なり、かなりウェットだなぁと感心しました。ある台湾人は、街中でもわたしが歩道を歩いていると、運転する車をわざわざ停車させ、窓を開け、「加藤さ〜ん」と呼び掛けて来ました。初めは耳と目を疑いましたが、練習場で面識があり、見覚えのある顔が車の窓を大きく開けて、満面の笑みを浮かべ笑って手を振っていました。この人懐こさには本当に感激したものです。蛇足ながら、ゴルフをやる人はベンツかBMWでも運転している老板(社長)かと想像していましたが、日本のカローラに乗っていたのにびっくりしました。しかも、手動式の窓ガラス付き…
ゴルフコースでのラウンドも楽しいのですが、わたしはゴルフ場の景観にぞっこん惚れ込んでおり、当時はプレイをしなくとも暇な時間があれば、本当に今では信じられないことですが、旧淡水ゴルフ場に行って塀の外からコースの景観を眺めて楽しんでいました。(他人のプレイを覗いているわけではなく単純にゴルフ場を眺めていました)これは、中学校の林間学校で蓼科高原に行った時も、キャンプ場に隣接するゴルフ場に夕暮れ間近に忍び込み、誰もいなくなった薄暮のフェアウェイ内を走り回ったのを覚えていますが、あの時以来フェアウェイの景観に魅了されてしまい、ゴルフ場は憧憬の場所となっていました。
この「グリーン好き」は会社に入社後、登山クラブに参加し週末は毎週登山に明け暮れる生活を数年間続けていた様にアウトドアスポーツに目覚めた時ことにも共通したものがあると思います。中学以来10年間剣道という室内競技に明け暮れていた反動もあり、心の底のどこかに屋外競技への憧れがあったのかもしれません。
しかしながら、実際コースに出ると白球の行先を追うのが忙しく、コースの景観を楽しむ余裕など全く無くないのが現実。
約30年前ゴルフを始めた頃は、ドライバーは「パーシモン」で造られていました。道具による腕の修正(誤魔化し)が効かず、スイングが悪く力任せのスイングを続けているので、ティーショットはいつも、ものの見事な大スライスばかりがでます。
その結果、わたしの第二打はほとんどが林の中、ラフから脱出のみ、或いは隣ホールのフェアウェイからグリーンを狙うショットばかりでした。これではまともなスコアで回れる筈がありません。
ある日、台湾の名門旧淡水(台湾ゴルフクラブ)でプレイが出来るというので早朝スタートを目指し行きました。そこのキャディーさんはすべてプロ崩れの男性キャディーばかりでした。わたしに付いた専属キャディーは凄い熱心で、わたしが初心者だと分かると、ここではこの番手でどっちの方向に打てとか、番手を上げて低いボールのパンチショットで木の枝の下を抜けろ等々、細かく手取り足取り教えてくれるので、スコアも大分改善された気がします。その頃は「コースマネージメント」という言葉などまったく頭になかったのですが、自分の腕前でも頭さえもっと使えば(コースマネージメント)、良いスコアで回る事も出来るということを始めて理解しました。
広州駐在員になって年間100ラウンド
1997年、広東省広州に駐在すると、会社からゴルフ場会員権を与えられるという非常に手厚い福利厚生がありました。広州から近い佛山に会社が無記名会員権も保有していた為、4名一組までなら、いつでもだれでも、会社名をいうと利用出来たので良く利用しました。
あの頃はまだ広東省のゴルフ場は、プレイする中国人の数は少なかったので、我々日本人は何時でも予約無しでプレイ出来るゴルファー天国でした。
ゴルフ場ではコースも食堂もロッカー室もゴルファーの姿をほとんど見掛ける事はありません。ラウンド中も前の組、後の組の姿を見たことがほとんどなく、自分たちでコースを一日「貸切り」でラウンドしているような夢のゴルフ環境。
しかもプレイ代金はメンバー料金だった事もあり、1ラウンド一人に一人のキャディ付きでなんとHKD100(当時のレートで約1,500円)と信じられない低価格でした。オリンピック(グリーン上でのパット数で勝負)をやって当時はアプローチに磨きが掛かりボールがピンに寄っていた為、大抵は勝ち、毎週のプレイ代はほとんど自分で支払うことはありませんでした。
そんな中でも広州で一番印象に残るのは、広州での一番最初のラウンドです。赴任したのが、真冬の1月ということもあり、ゴルフシーズンではなかったのも原因ですが、誰からもお誘いがかからず、ゴルフ天国と聞いていたのにどうした事かと…同じ部門の先輩に頼んで土曜日連れて行ってもらいました。午前中仕事があるということで、午後2時出発3時からふたりで打ち始めようと誘われました。さすがに広州、夜は7,8時まで少し明るいのかなと思いました。それでも予期に反し14ホールあたりから薄暗手くなり、18ホールは真っ暗闇の池越えのパー3、グリーンがどの辺にあるかまったく見えず、途方に暮れキャディに聞くと、「150ヤード、真っすぐです!」との指示でした。この真っすぐ打てれば何の苦労もしない。闇夜に打ったのはこの時が最初で最後の経験でした。バチンと打って、ポチャ(池ポチャ)あるいはガサガサ(OB)、ドンッとグリーンオンの音のいずれか、着弾するまでの空白時間が長かったこと。
また、広州市内からコースは近いので夜明けから打ち始めれば9ホールをホウルアウトしてからでも、会社の就業時間にぎりぎり間に合いました。ゴルフ好きの先輩を誘って1,2回2人で会社には内緒で9ホール回ってから出社した事があります。
更に、広州では昼間の猛烈な暑さを避け、ナイタープレイ設備を設営しているゴルフ場もありました。仕事帰りに会社から近いコースで9ホール回って帰るという、今ではとても信じられ経験もありました。各ホールにナイター照明があり、フェアウェイは煌々と明るく昼間と何ら変わりありません。深いラフに入るとボールは見つけ難く、草むらから蛇が出てくる可能性がある為、ラフに入ったボールはロストを宣言して、プレイを続行しました。お蔭でスコアは全くまとまりません。
広州に進出している日系カーメーカーの月例会に良く参加していました。スコアを崩し、入賞を逃した後は、表彰式・会食後、成績が不本意だった者同士が何人か居残り、もう一ラウンドを廻って、帰った事も何度かありました。まだ若く、一日に2ラウンド回るのは体力的に全く問題がなかったのです。現在考えてみると、日本では考えられないゴルフ環境だったと思います。しかし、2ラウンド目のスコアが思うように改善したことは一度もありません。
又、広州事務所の運転手はもの凄い仕事熱心で、家族もいるにもかかわらず、土日も仕事がしたいといい、金曜の夕方、土日にゴルフの予定が無く、彼に迎えに来て欲しいと頼んでいない週末は、夕方ころ運転手がのこのこやってきて明日明後日はゴルフに行かないのかと督促に来ます。わかった行くよと返事して、それから会社の同僚を誘ったことが何度もありました。ゴルフのお誘いを社有車の運転手から受ける珍しい事務所でした。
広州駐在は初めの1年は家族も帯同していたので、土日は家族サービスに専念した為ゴルフは封印せざるを得ませんでした。後半の2年は教育の関係で家族も先に帰国し、単身赴任になりました。毎週土日を殆んどゴルフに費やし、年間100ラウンド近くプレイしましたが、結局余りゴルフの腕前は上達しませんでした。日本に帰国した時のハンディが20でそのまま現在も全く進歩していません。なんとか19、 18にならないか今必死にコースでラウンドしています。
湖南省長沙での3回目の駐在とゴルフ
2015年、湖南省長沙に駐在した時の長沙のゴルフ場の数はまだ広州程多くない上に、中国人ゴルファー人口が激増していました。プレイ料金は1ラウンド900元、キャディフィー200元とその他交通費・食事代で約1,500元も掛かっていました。今では日本でプレイした方がはるかに安いです。1ラウンド2万円を超えていました。それに予め予約をしないとプレイ出来ません。当たり前といえば当たり前ですが、ぶらりと行けば何時でも出来た広州駐在時代が本当に懐かしく思います。
日本より割高なゴルフ場なので、段々足が遠のいていきました。しかしそれでも、機会があれば足がゴルフ場に向かいます。ある日、練習場でスイングフォームを変えたら、ドライバーが何度か爆跳びする経験がありました。ドライバーヘッドを背中後方に思い切って低めに引いて横ぶりの度合いを深めた。飛距離も出ましたが、体が悲鳴を上げました。コースに出てこのスイングの飛びを試したところ、ものの見事にボールとクラブヘッドがきれいに真っすぐ飛び出し、ヘッドは池ポチャで池の中央にプカリプカリ、「おい加藤、ゴルフはボールを飛ばすんだ、クラブヘッドは飛ばさなくていい!」と詰られました。不幸中の幸いで「ゴルファー保険」に加入していた為、プレイ中の道具の破損を求償するため、証拠のクラブヘッドを回収しなければならず、迷ってクラブハウスに連絡すると「手配する」と一つ返事で対応してくれました。何とかその後は三番ウッドで回り、無事18ホール回りクラブハウスに戻りかけに、小型トラックにボートを積み込んだ車両とすれ違いました。「あれは加藤のヘッドを取りに行く船だ」と大笑いしてました。帰りにヘッド回収料金50元の追加料金もしっかり取られていました。商魂たくましい中国ですね。



コメント