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北陸周遊(ユースホステルの旅) ほろ苦い越前ガニの思い出

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旅の随筆
pen_ashによるPixabayからの画像
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大学1年の時、年明早々ふと思い立ち、北陸ワイド周遊券を利用して長野、富山、金沢、福井を訪ねました。

1泊目は途中木島湖ユースホステルに立ち寄りました。夜は大広間の部屋に、みんなの布団を敷いて寝る宿でした。普通の宿と違うのは、部屋の真ん中に大きな炬燵がありました。こたつを中心に放射状に布団を敷き、みんなの足は炬燵の中に少しだけ入れて、暖を取る珍しい形でした。はじめ見た時はみんなが子供のようにふざけてやっている様に見えました。しかし、聞いたところでは、この地方の一般的な就寝時の習慣だそうです!?

2泊目は城端線を乗り継ぎ、越中五箇山の合掌作りの民家を活用したユースホステルに泊まりました。同宿者はたまたま富山県内の氷見から一人で遊びに来ていたOLの方でしたが、すっかり、その民家に溶け込み馴染んだ、普段着の袢纏を着ていたのと、食事の面倒などもよく見てくれたので、はじめわたしと同じ宿泊客とは思わず、この宿の親族かなとうっかり勘違いして話をしていました。後で、どうも泊り客らしいことが分かり、驚いた事があります。

当時は氷見と聞いてもどんな町か全く知らず興味ありませんでしたが、社会人になると居酒屋等で富山湾の魚は美味しいと評判を色々聞き、更に『氷見』や『魚津』は新鮮な魚の宝庫であることを知るようになりました。その後、荻窪駅近くにあった『魚津』という居酒屋には大変お世話になりました。(少し前に閉店しました)今、氷見(ひみ)出身と聞けば、興味津々で、氷見のどこの店に行けば安くて新鮮な魚が食べられ、旨い酒が飲めるか、いろいろ情報収集しようと質問攻めにしていたかもしれません。

五箇山ユースには2連泊しました。1泊目初めて合掌作りの伝統的な日本家屋で過ごした第一印象は、屋根に積もった雪が内部の熱気で解けて滴り落ちる水音が一晩中ぽたりぽたりと続いた音でした。その時は、朝方、雨が滴る音とうっかり勘違いしてしまい、今日は雨かと布団の中でがっかりしました。しかし、外出の為玄関の扉を開くと、すっかり晴れ渡たり大快晴だったので非常に驚きました。一晩中ぽたぽた聞こえていた音は雨音ではなく、雪解け水の音だったのです。

五箇山での2日目は特に予定はありませんでしたが、宿の人から近くに「温泉」があるので二人で行って来たらと勧められ、歩いて出掛けました。温泉の名前は聞きましたが、その氷見の女性が宿の人に温泉の場所の説明をよく聞いている様だったので、わたしは「地元」出身である彼女に道案内を任せて、後を付いて行きました。

ところが、彼女はわたし以上に方向音痴のこんこんチキで、ルートを完全に間違えた様です。いつの間にか民家も人気もない雪山をかき分け、かき分けて歩いていました。雪山登山の状況になっていました。踏み跡も無い様な所に「温泉」がいったいあるのだろうかと、徐々に不安を感じ始めたところに、前から、突如鉄砲を担いだ勇ましい恰好をした猟師『マタギ』現れました。わたしたちは幸いにして、クマか狸と間違えられず、一発ぶっ放されなくて助かったと思いました。温泉までの道を尋ねるとやはり進んで来た方向がまったく逆だった様です。

来た道を引き返し、何とか大分遅れて漸く温泉には入れました。改めて調べてみましたが越中五箇山「小瀬羽馬温泉」だったと思います。温泉名は不確かです。他にもいくつか温泉がありそうですが、とにかくユースホステルからは歩いて行ける距離でした。途中マタギとすれ違うような、そんな山奥ではありません。

次の宿は永平寺門前ユースホステルです。名前の通り、永平寺に隣接するユースでした。前日申し込みをすれば、早朝の参禅に参加出来ると聞き行って見ました。案内係りの若い僧侶は、厳冬の早朝、永平寺の凍りつくような木の床の廊下の上を裸足で歩いていました。わたしも中学時代、冷え込む早朝の道場で剣道の寒稽古をしていましたが、あまりの床の冷たさに足が霜焼けになり、痒くて苦しんだことがあります。永平寺の僧侶は霜焼けにならない薬でも塗っているのか、そればかりがたいへん気になりました。

厳粛な雰囲気の永平寺で、初めての座禅体験で清々しい気分になれたような気がします。

しかしながら、前の晩に、翌朝の参禅の予約の電話をしようとすると、ユースのヘルパーから制止され、「坊さんは男なので、女性から電話してもらった方が参禅の了解は獲り易いですよ」と電話を女性に交代するように言われました。俗世間から超越している永平寺ですら、そんなもんなのだろうかと何となく釈然としませんでしたが、女性から予約の電話をしてもらいました。

さて、今回の旅行でもやはり、今でも失敗したなぁと反省するべき事がありました。

越前ユースホステルでは夕食時、わたしは特別料理として「越前蟹」を注文していました。当時は学生の分際でも注文出来る1,500円程度と今では信じられない値段でした。(40年前!) このユースホステルはこの日、泊り客が少なく、たまたま同宿していた、わたしの同郷埼玉出身の女子大生2名と同じテーブルで食事をする事になりました。

彼女らは私の御膳に蟹の皿が一つ多いのに直ぐ気が付くと、厨房に駆け込みユースの方に確認している様子でした。 聞こえてくる声は「あの人は事前に予約してあったので出せたけど、急に言われても仕入れてないので、出せないのよ」と断られている声が聞こえました。

まだ、若かったわたしは自分の蟹を女子学生に分けて食べるように差し出す事もなく、黙々と彼女たちの目の前で、大人げなく全部一人で食べてしまいました。

今であれば「よろしかったら、少し食べませんか」とかなんとか、気を回して蟹の脚を分けていると思います。同じテーブルに座っている同士でした。わたしは今でも蟹を食べる度に(そんなに食べる回数は多くはありませんが)、なぜあの時、あの一言が言えなかったんだろうかと悔やみ続けています。

それでも食事中は楽しく歓談して、(彼女たちは内心どう思っているかわかりませんが)、同郷埼玉出身(一人は上尾市)である事も分かり、食事後もわたしの部屋に来て夜遅くまで旅の話をするなど和気あいあいの雰囲気でした。翌日も越前岬の水仙見学など一緒に行きました。その時の写真を交換するなど交流は暫く続いたのですから、不思議です。

70年代 懐かしい北海道旅行(ユースホステルの旅)の思い出

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