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ふるさと上尾(あげお/埼玉県)こころの中の”昭和”

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旅の随筆
SichiRiによるPixabayからの画像
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東京都内から埼玉県上尾市に引越して来たのは丁度幼稚園に入園する少し前だったので、5歳位だったと思います。小学5年生まで5,6年住んだ懐かしい上尾の生活の一部をご紹介します。

家は駅から徒歩3分という市内繁華街のど真ん中で非常に便利でした。

xie mzcによるPixabayからの画像

旧中山道(国道旧17号と言っています)沿いの商店・餅菓子屋(都内の有名和菓子屋”岡埜栄泉”ののれん分けのお店かどうか詳しい事情は知りませんが)”岡埜栄泉”の隣にありました。その店には一つ年上の男の子がいたので良く遊びに行きました。一日中大釜で餡を煮る甘ったるい香りが漂っていました。わたしはその店の和菓子の中でも特に”君しぐれ”が大好物でした。また、その家は4人の男兄弟でわたしの相手をしてくれたのは4男坊なのですが、年のかなり離れた兄たちにも良く面倒を見てもらいました。


旧中山道を挟んだ斜対面には銭湯゛松乃湯”がありました。開店時間の午後3時よりかなり前には、爺さん、婆さんが銭湯の玄関先に行列を作っているのを良く見掛けました。当時は何でこんなに早くからわざわざ並ぶ必要があるのか、訝ったものです。一番風呂には相当な御利益があるのかもしれません。時間を持て余したご老人が雑談する為、早くから並び一種の社交場になっていたのでしょう。

銭湯の燃料は廃材、おがくずの類でした。銭湯の従業員(それともご主人?)が今ではほとんど見かけなくなったリヤカー一杯の廃材を汗水垂らし引っ張って行くのを何度も見掛けました。それと、湯船に浸かっている客が、湯がぬるいと「ぬるいぞぉ〜」と叫ぶと、湯室の小窓を開けて、真っ黒な煤だらけの顔を覗かせ、「直ぐ焚いて(温度を)上げますよぉ〜少し待ってくださいぃ〜」などと大声で返事を返していたのを覚えています。暫くすると、熱いお湯ががんがん沸き始めました。

Tuan Nguyen KhacによるPixabayからの画像

 


子供の遊び場はお寺(遍照寺)でした。当時から境内の中央に銀杏の大木(雌株)があり、そこを中心に子供たちがいつでも行けば、誰かしら屯していました。紅葉のシーズンになると恐ろしい数の銀杏が落下して足の踏み場もありませんでした。踏みつけると臭いのなんの。その銀杏の大木には大蛇が住みついているらしく、時々、木に登る姿を目撃する人もいてびっくり恐れおののいた顔をしていました。わたしは、残念ながらお目にかかった事はありません。


境内には古い鐘撞き堂がありました。梵鐘や撞く棒も無いのを好い事に、天井から垂れている太い縄にぶら下がり、横木から横木に渡るターザンごっこをしてよく遊びました。現在こんな事をして遊ぶ子供がいたら住職に見つかれば大目玉でしょう。また、寺の本堂の床下はかくれんぼの絶好の隠れ場所となりました。今でも”ホウレンソウ”のお浸しを食べると、少し似ている本堂の床下の臭いを思い出してしまいます。寺の敷地内の隅から隅まで、隠れ場所を探す為に知り抜いていました。


泥粘土を子供に売る商売もありました。素焼きの型に泥粘土をはめ込み、動物か人物の形に整形された泥粘土を取り出し、色つきの粉で色付けするという奇妙な泥粘細工です。泥粘土にきれいに色づけして、持参するとそのオヤジに褒められ、一回り大きい素焼きの型を貰えるシステムです。初めは手のひらサイズの型から始まり、”腕を上げる“と徐々に大きな型になって行きます。型は確か無料でくれるのですが、泥粘土は5円か10円で買う必要があります。今思い返すと「なんじゃこれは!」という商売ですね。不定期にお寺に来ていました。

Sebastian GößlによるPixabayからの画像


駅前に住んでいたので、映画館「プリンス劇場」も目と鼻の先にありました。年3回夏休み、冬休み、春休みのシーズンが楽しみで楽しみで、心待ちしていたものです。東映マンガ祭り、ゴジラ映画などが開催され、3本立て、毎回大入り満員、立ち見覚悟という大盛況振りでした。入場券は座席指定ではない為、開場前に早くから列に並び、開場と同時に良い席目指して駆け出し席を奪い合うという、何とも懐かしい“昭和スタイル”です。


同級生がいた“吉水パン屋”も近くでした。食パンにイチゴジャム、ピーナッツバター、あんこなどを縫ってもらってどれも一個10円程度で買えました。焼き立ての食パンはふわふわでもっちりでした。数年前上尾を訪問した際、このパン屋の前を通り掛かりましたが、まだ健在の様です。(丁度定休日の看板が掛かってました)


小学校は「上尾中央小学校」です。5年生で同じ県内の鴻巣に引っ越したので、転校してしまったのは残念でした。非常にスポーツの盛んな学校でした。始業前の30分、昼休み、放課後すべて校庭でサッカーに興じていました。当時はスポーツクラブも無かったので、まだ組織的な訓練は受けていませんでしたが、とにかく、現在でも運動好きなのはこの時身に付いた運動習慣のせいかもしれません。


また、何故か、クラスでは、その日の給食の献立メニューを後ろの黒板に板書するという係を与えられ、毎日黒板に書いていました。好物はうずら豆、大豆煮です。まだ、ごはん食が始まっていなかったので、食パンかコッペパンでした。今から思うと、納豆やうずら豆を食パンに乗せて食べるのはどうかと思います。


責任感が強かったのかどうか知りませんが、学校の鶏、ウサギの餌当番もやりました。この責任は大変重く、一日でも餌・水をやり忘れると動物は死んでしまいます。夏休み時期も休まず、やってました。


同級生に牧場(富永牧場)の子がいて牧場に遊びに行きました。牛でも飼っていたのだろうと思いますが、当時の関心は蜂の巣を竹竿で突っつき落として、中の蜂の子をフライパンで炒めて食べるという事でした。牧場育ちの子は随分野蛮だという事を認識しました。蜂の子は香ばしく美味だったのですが、よく蜂に襲われ刺されずに済んだものです。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像


生まれて初めてそろばん塾に通いました。塾の門の前には毎日おでんの屋台が子供相手におでんを売っていました。夕方以降大人相手の商売の前に少し売り上げを伸ばそうという魂胆かもしれませんが、当時はそんな事を知る由もなし。塾長からはおでんは買うなと厳しく止められていました。しかし、はんぺん一個5円、玉子10円で子供(小学生3,4年)ながらとても美味しいと思いました。塾通いで算盤を弾くのを覚える前におでんの味を覚えるというのも余り聞かない話です。

大人が見る世界と子供の世界はかなり違っているかもしれません。それにしても断片的ながら半世紀以上前の事を良く記憶しているものだと改めて感心しました。「ALWAYS 三丁目の夕日」とどんぴちゃりと重なる時代なのでこの映画も大変懐かしく感じます。遊んだ記憶しかなく、全く勉強した記憶がありません。それと影響が大きいのはマンガ本ですね。


もし、当時上尾に住んでいた方がいらっしゃれば是非ともご一報頂けると嬉しい限りです。

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